東京地方裁判所 昭和63年(ワ)18563号 判決 1990年5月17日
原告 隆興貿易株式会社
右代表者代表取締役 朴周夏
右訴訟代理人弁護士 須藤英章
同 岸和正
被告 南西株式会社
右代表者代表取締役 除野健次
右訴訟代理人弁護士 林彰久
同 池袋恒明
主文
一 被告は原告に対し、金五三、七五五、四六六円及びこれに対する昭和六三年七月二七日から支払済みまで年六パーセントの割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、これを五分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
1 被告は原告に対し、金六五、九二九、一四〇円及び内金九、二八五、一四〇円に対する昭和六三年四月二七日から、内金五六、六四四、〇〇〇円に対する同年七月二七日から、それぞれ支払済みまで年六パーセントの割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は、被告の負担とする。
第二事案の概要
原告は、昭和六〇年一〇月三日、訴外明裕不動産株式会社(以下「明裕不動産」という。)から、別紙物件目録記載の建物部分(以下建物全体を「本件建物」といい、賃貸借部分を「本件貸室」という。)を賃借したが(これを「本件賃貸借契約」という。)、その際、保証金として五六、六四四、〇〇〇円及び敷金として一四、六一四、一四〇円を預託した。
被告は、明裕不動産に対し、一四〇億円を貸し付け、本件建物につき賃借人付きのまま譲渡担保契約を締結していたが、明裕不動産が、右借入金を弁済期までに返済しなかったため、昭和六三年二月二日到達の書面で、右譲渡担保権の実行の通知をした(この点は当事者間に争いがない。)。
以上のような状況において、原告は、右譲渡担保権の実行により、被告において、本件賃貸借契約上の賃貸人の地位を承継し、その結果、保証金返還債務と敷金返還債務(以下両者を併せて「保証金等返還債務」という。)も承継していると主張し、原告がその後本件貸室を明け渡したことを理由に、敷金のうち現状回復費用分を相殺控除した残額(九、二八五、一四〇円)及び保証金全額の各返還を求めた。
なお、敷金残額については、本件貸室の明渡しをした日(原状回復費用との相殺の意思表示が被告に到達した日)の翌日である昭和六三年四月二七日から、保証金については、明渡しの三箇月後に支払うという明裕不動産との合意に基づき、三箇月を経過した日である昭和六三年七月二七日から、それぞれ、支払済みまで年六パーセントの割合による遅延損害金の支払も求めている。
(争点)
本件争点は、①被告は、本件賃貸借契約上の賃貸人の地位を承継したか、②承継したとすれば、被告は、どのような内容の保証金等返還債務を負っているか、であるが、これらの点を判断するのに必要な具体的な論点は、次のとおりである。
一 被告が本件建物の所有権を譲渡担保権の実行により確定的に取得した時期
1 原告
明裕不動産が一四〇億円の借入金の弁済期を徒過した後に、被告が譲渡担保権の実行の通知を最初にした昭和六三年二月二日である。
なお、被告は、その後に再度、譲渡担保権実行の通知をし、最初の通知を撤回したとしているが、これは撤回ではなく、本件建物の評価額を見直し、これを前提に精算後の債権の残額を修正する趣旨の意思表示であり、最初の通知により本件建物の所有権を取得したこと自体を変更するものではない。仮に、撤回であるとした場合は、原告は最初の通知を信頼して利害関係を持つに至った第三者であるから、民法五四五条第一項の法意からも、この撤回は許されず、また、被告は、原告を第三債務者とする賃料債権取立禁止の仮処分を取得し、これは同年四月二日に原告に送達されているので、最初の撤回は、禁反言の法理ないし信義則上許されないというべきである。
2 被告
被告は、昭和六三年三月三一日に、東京簡易裁判所における調停において、最初の担保権実行の通知を撤回し、裁判所の選任した鑑定人による本件建物の鑑定の結果に従うこととした。その後、被告は、右鑑定の結果に基づき、改めて、同年六月八日付内容証明郵便により同年五月三一日に本件建物を確定取得する旨の意思表示をしたので、取得時期は、その時点である。
二 本件賃貸借契約の終了時期
1 原告
昭和六三年一月一二日、原告と明裕不動産間で、次の内容の合意が成立しており(以下これを「本件明渡しの合意」という。)、これによれば、本件賃貸借契約は、本件店舗の明渡し期限の到来により終了した。
① 明渡し期限 昭和六三年三月末日
② 敷金返還時期 本件店舗の明渡しと同時
③ 保証金返還時期 明渡しの三箇月後
2 被告
本件賃貸借契約は、昭和六三年一月一二日の本件明渡しの合意により終了している。
三 本件貸室の明渡時期
1 原告
原告は、昭和六三年三月三一日、本件貸室内の原告所有物件を撤去し、その後、四月二六日、被告に対し、口頭で、本件店舗の原状回復費用五、三二九、〇〇〇円を敷金返還請求権と対等額で相殺する旨の意思表示をしたので、その時点が明渡時期である。
なお、相殺の効力については、自動債権である敷金返還債権に付着している抗弁権の内容は、本件貸室の明渡債務の履行であるが、その後、原状回復費用の支払債務の履行に変容しており、これは受動債権そのものであるから、相殺は当然に許される。
2 被告
原告は、未だ明渡しを行っていない。すなわち、被告に対する相殺処理については、自動債権である敷金返還債権は、明渡しと同時履行の関係にあり、抗弁権が付着しているので、相殺は許されないし、そもそも、その時点では、被告は、本件賃貸借契約上の賃貸人ではなかったので、相殺は効力を生じようがない。
四 本件保証金返還債務の法的性質
1 原告
本件保証金は、敷金と同じ性格を有しており、その返還債務は、本件賃貸借契約の賃貸人の地位に伴って承継される。
2 被告
本件保証金は、敷金としての性格はなく、その返還債務は、この預託を受けた明裕不動産が負うものである。
五 返還すべき敷金及び保証金の額
1 原告
返還されるべき敷金又は保証金は、賃料の二箇月分を償却した後のものであるが、それは、本件賃貸借契約締結当時における賃料(一箇月二、四三五、六九〇円)を基準にするべきである。また、本件貸室明渡しまでの損害金を更に控除する余地はない。
2 被告
控除すべき賃料は、いずれも、明渡し時点の賃料(一箇月三、〇八〇、〇〇〇円)を基準にするべきであり、したがって、返還されるべき敷金は、敷金残の九、二八五、一四〇円から償却分六、一六〇、〇〇〇円を控除した三、一二五、一四〇円である。
また、原告は、本件明渡しの合意により、昭和六三年三月三一日限り明け渡す合意をしたが、実際に明渡したのは、同年四月二六日であり、その間の損害金は、次のとおりである。
一箇月の損害金
賃料倍額相当損害金 六、一六〇、〇〇〇円
負担経費相当損害金 七七八、八五五円
合計 六、九三八、八五五円
この二六日分 六、〇一三、六七四円
これを、敷金残額及び保証金から控除すべきであり、対等額で相殺する旨の意思表示をする。
第三争点に対する判断
一 被告が本件建物の所有権を譲渡担保権の実行により確定的に取得した時期
明裕不動産は、被告に対する一四〇億円の借入金につき、その返済期限である昭和六三年一月三一日までに返済しなかったので、被告は、同年二月二日到達の書面で、本件建物についての譲渡担保権を実行する旨通知している。そして、本件建物の評価は、右借入金及びその利息、損害金の合計額に満たないので、精算金債務は発生しない状態であった。したがって、被告は、この時点で、本件建物の所有権を確定的に所得したものと認めるべきである。
なお、明裕不動産は、同年一月二七日、東京簡易裁判所に対し、右借入金の返済期限の猶予を求める調停申立てをしたが、その手続において、本件建物の評価が被告と明裕不動産とで大きな開きがあったので、双方は、協議した上、裁判所が選任した鑑定人により本件建物を再評価させ、その結果に基づき精算することが合意された。その後、被告は明裕不動産に対し、同年六月八日付けの書面により、右鑑定による本件建物の評価を前提として、切りの良い五月三一日時点で精算することとし、なお債権が残るとして、同日付けで本件建物を確定取得することと残債権の支払とを通告している。
しかし、被告は、この間、借入金の返済期限を猶予する等の意思は全く無く、本件建物を譲渡担保として取得したという態度は終始変わらず、ただ、精算関係を、裁判所の選任した鑑定人の鑑定の結果により処理し直すことにしたものと認めるべきである。
そうすると、六月八日付けの通告は、二月二日の通知の全面的な撤回としてされたのではなく、あくまでも、精算関係のみの再調整を行ったものと評価すべきである。
そして、結果的には、明裕不動産に交代すべき精算金は、再評価によっても生じなかったのであるから、結局、被告は、本件建物の所有権を、当初の二月二日に確定的に取得したというべきである。
二 本件賃貸借契約の終了時期
本件明渡しの合意においては、原告の本件建物の明渡期限を昭和六三年三月末日とし、その際の原状回復の方法が取り決められたほか、既に経過していた更新時期(同六二年一〇月一日)から右明渡しまでの賃料額を定め、未払分の支払の確約がされている。
そうすると、同六三年一月一二日にされた本件明渡しの合意は、本件賃貸借契約を、将来の同年三月末日の時点で解消することを内容とする合意であり、それまでは契約は続いていくことが了解されたものであるから、本件賃貸借契約の終了時期は、右合意がされた時ではなく、三月末日であるというべきである。
(被告の本件賃貸借契約上の賃貸人の地位の承継の有無)
一及び二の検討結果によれば、被告は、本件賃貸借契約の存続中に、本件建物の所有権を承継取得したことになる
ところで、被告・明裕不動産間の本件建物についての譲渡担保契約においては、契約締結時に、本件貸室を含む各貸室の賃貸借契約が存在していることを前提にし(第三条、別添賃借人目録)、譲渡担保権実行の際は右賃借権付きのまま本件建物を取得することを合意しており(第九条)、本件建物とその貸室の賃貸借契約を切り離して処理することを取り決めた条項は存在していない。
そうすると、被告は、本件建物を右譲渡担保権の実行により取得することにより、本件賃貸借契約上の賃貸人の地位を承継することになり、原告もその通知を受けて、これを異議なく承諾したというべきである。
三 本件貸室の明渡時期
1 本件賃貸借契約第一七条において、本件貸室の明渡しについては、原告が原状回復を行った上で賃貸人に引き渡すことが取り決められている。ところが、本件明渡しの合意において、右原状回復の方法としては、明裕不動産及び被告は、原状回復工事の見積を取り、原告が明裕不動産に対しこの金額を支払うことにより済ませることができることが合意された。この合意は、本件賃貸借契約の明渡しの際の原状回復措置の具体的な内容を取り決めたものであり、右契約と不可分一体のものとみるべきであるから、前示のとおり賃貸人の地位を承継した被告に承継されたものである。
そして、右見積は、その後三月になって、明裕不動産により作成されて原告に交付されたが、その前の二月二日に賃貸人の地位を取得した被告は、自らは三月三一日の明渡期限までその作成をしないまま経過している。
そうすると、明裕不動産作成の見積書の内容が被告にとって不利なものとは認められないという点も加味すると、このような状況においては、被告は明裕不動産作成の見積の内容を追認したとみるべきであり、原告としては、この見積金額を支払えば、原状回復の措置を行ったものと評価すべきである。
2 そして、原告は、昭和六三年三月三一日、本件貸室内の原告所有物件を撤去し、その後、四月二六日、被告に対し、口頭で、前示の明裕不動産が見積った本件店舗の原状回復費用五、三二九、〇〇〇円を敷金返還請求権と対等額で相殺する旨の意思表示をしたので、原状回復措置をとったものと評価でき、その時点で、本件貸室の明渡しがされたとみるべきである。
3 なお、右相殺の効力については、自動債権である敷金返還請求権は、本件賃貸借契約上、明渡しと同時履行の関係にあり(第七条第二項)、抗弁権が付着しているので、相殺が許されないのではないかという問題がある。
しかし、前示のとおり、当時の状況において、明渡債務の履行としては原状回復工を残すのみであり、しかも、その工事に替えてその費用相当額を弁済することでたりるとされていたので、結局、右抗弁権の内容は、現実には、右費用の支払債務の履行に変容しているのである。そうすると、相殺を認めることにより、抗弁権の行使が阻害されるという関係にはなく、これを禁止する理由はないというべきである。したがって、右相殺は許されることになる。
四 本件保証金返還債務の法的性質
本件賃貸借契約においては、敷金のほかに保証金の預託が規定されており、その返還債務が賃貸借契約と伴に被告に承継されるかが問題になる。
一般に、賃貸借契約の締結の際に保証金が授受されることがあるが、そのなかには、建物建設協力金等金銭消費貸借の性質を有し、賃貸借契約とは別個に一定期間据え置いた後に返還される等の処理がされるものもある。しかし、本件においては、本件建物は、本件賃貸借契約が締結されるはるか以前の昭和三五年六月に竣工したものであるから、本件保証金が建設協力金ではあり得ず、また、本件賃貸借契約によると、その返還時期は、賃貸借契約の終了に係らせており、賃借人の延滞賃料債務等に充当できるとされている等、その処理につき敷金と同一に扱われている(第七条第三項、第四項参照)。
したがって、本件保証金は、敷金と同じく、本件賃貸借契約と一体のものであり、賃貸人の地位に伴って承継されると解すべきである。
五 返還すべき敷金及び保証金の額
1 甲第一号証の本件賃貸借契約書の第七条第四項は、返還されるべき敷金又は保証金は賃料の二箇月分相当額を償却した後のものであることを定めているが、そこでは、「賃料」とあるだけで、その額は勿論、いつの時期の賃料なのかを具体的に明示してはいない。そこで、この契約書全体を見てみると、第七条の「賃料」は、第三条に定められている賃料を指すと解するのが素直であるというべきである。
ところで、甲第一号証の本件賃貸借契約書は、昭和六二年一〇月一日に更新される前のものであるが、更新後は、賃料は、値上げされているので、更新後の契約書においては、第三条の貸室賃料の定めは、金二、四三五、六九〇円から三、〇八〇、〇〇〇円に書き改められるはずである。そして、第七条第四項の文面はそのままであるわけである。そうすると、右第七条第四項でいう「賃料」も、第三条に定めるはずの更新後の賃料を指すと解すべきである。
2 次に、本件賃貸借契約においては、賃料の二箇月分相当額の償却を保証金と敷金のどちらから先に行うのか等の定めがされていない。
しかし、この点は、契約の合理的な意思解釈として、賃貸人が自由に選択できると解すべきである。したがって、本件において、被告の主張どおり、まず敷金からの償却を行うことになる。
3 さらに、原告は、本件明渡しの合意により、昭和六三年三月末日限り本件貸室を明け渡す合意をしたが、実際に明け渡したのは、前示のとおり、同年四月二六日である。
したがって、本件賃貸借契約第一七条第三項により、その間の損害として、賃料の倍額及び経費負担金相当額の損害金を支払う義務がある。そして、その額は、平成二年二月二〇日付け被告準備書面三記載のとおり、六、〇一三、六七四円であり、これを、敷金残額及び保証金から順に控除すべきである。
(被告が負担する保証金等返還債務の内容)
三ないし五の検討結果によれば、結局のところ、被告は原告に対し、当初の保証金から二、八八八、五三四円を控除した額の金員の返還債務を負うことになる。
(裁判官 千葉勝美)
<以下省略>